2013年07月
2013年07月25日
<4日目> いざ、軍艦島へ 2013.5.6
さて、この旅の最終日、軍艦島上陸の日だ。
この日もいい天気。
途中、注連縄の向こうの軍艦島を拝んで、市内へ向かう。
常盤2号桟橋から出航、着いたばかりの大型客船を横目に…
いくつかある三菱重工のドックを後にして伊王島大橋をくぐると、いよいよ外海だ。
ただ、この日はめったに無い大凪。こんな穏やかな東シナ海は本当に珍しい。
右手にはカテドラルが美しい。
30分強の船旅の後、島が目の前に迫ってくる。
まずは北東側の学校があった建物から・・・船は右旋回して島を周っていく。
近くに寄るとその廃墟の迫力、というか刻んだ歴史を思い知らされる。
学校の隣、島の北端には病院があったそう。炭鉱という職場のせいかいつも呼吸器系の患者が絶えなかったという。
西側はいわゆる住居棟が立ち並ぶエリア。
ここでの汚物の処理(パイプを通して海に流していた)のこと、仕事を離れた時間の過ごし方(映画やパチンコ、当然飲み屋など)も詳しく解説してくれた。
船は南西端で一旦島から離れてもう一度戻っていく。
そしていよいよ、桟橋へと向かう。
係りの方の誘導でゆっくりと上陸。
見学コースに入っていく。
軍艦島は正式には端島という。もともとは岩礁のようなものだったのだが、ここの石炭は地元の漁師の間では知られていたらしい。特に良質な石炭だということで明治時代から少しずつ開発が進められていった。岩礁の周りを少しずつ埋め立てられ、島といえる規模になっていく。それも当時の土木技術の先端だったのだろう。
それでもどんどん地底深く掘り出していかねばならない。
海底1000mという、信じられない深さまで掘り進んでいったという。働く人々はエレベーター(と言っても簡素なリフトのようなものだった)に乗るのさえ、怖かったという。
解説をしてくれたのは若い頃ここで暮らしたという木場田友次さん。
偶然にもこの前日テレビの番組での放映があり、出演していた方・・・
実体験のもと、具体的に語っていただいた話には深みがあった。
(そして、エンターテイナーとしても素晴らしいものがあった)
子供たちの遊び(狭い場所での野球ごっこや隣の部屋の人々との交流、またもしかしたら実体験?かもと思わせる、若者たちのデートの場所(そんなところがあるわけが無い。堤防が逢瀬の場所だったと言う。そしてそれを屋上で見ている悪ガキがはやしたてていたらしい)ことなど・・・・・
観光客が歩けるところは、ほんのわずかな空間だがそれでもその迫力
もさるものながら当時の暮らしの香りが残っていて、何故か切なくなってくる。
産業や労働の歴史という側面ももちろん忘れてはいけないとは思うが、何よりこの島での暮らしや生き方など・・・そんな方向に引きずられてしまう。
歴史的にはこの国ではじめての高層アパートであり、戦前からのエネルギー供給源であったり・・戦後もまたそれを担う施設であったのは確かだと思う。それを語るのがこの建物たちであり、もちろん当時暮らしていた人々の暮らしの痕跡だ。
でもこの廃墟が僕たちに語ってくれるものは、ただの歴史ではないだろう。
そのころもきっと周りから見たら、最先端の生活道具があり平均的な収入もよかったのだとは思う。ただ、それは生死を分ける過酷な労働環境と不自由な環境とのトレードオフだったことは間違いない。
いまも変わってないじゃないか・・・と
思いながら栄華の跡?を歩いていくと、カヌーでここに来ている若者たちが。
何か対照的に感じてしまったのは歳のせいであろうか。
でも、それはそれでいいのかも・・・
と、思い直し素直にその挑戦心を称えたくもなった。
良し悪しはともかく、そんな風に時は巡っていくのだろう。
長崎港に戻って、ちゃんぽんの昼飯。
そしてあとは帰るだけ・・・。
それでも佐賀空港への帰途では最後の一浴をと、名湯武雄温泉へ・・・・
その楼門は残念ながら補修中だったが、「鷺乃湯」で旅の疲れを癒すオッサンであった。
さて、この旅の最終日、軍艦島上陸の日だ。
この日もいい天気。
途中、注連縄の向こうの軍艦島を拝んで、市内へ向かう。
常盤2号桟橋から出航、着いたばかりの大型客船を横目に…
いくつかある三菱重工のドックを後にして伊王島大橋をくぐると、いよいよ外海だ。
ただ、この日はめったに無い大凪。こんな穏やかな東シナ海は本当に珍しい。
右手にはカテドラルが美しい。
30分強の船旅の後、島が目の前に迫ってくる。
まずは北東側の学校があった建物から・・・船は右旋回して島を周っていく。
近くに寄るとその廃墟の迫力、というか刻んだ歴史を思い知らされる。
学校の隣、島の北端には病院があったそう。炭鉱という職場のせいかいつも呼吸器系の患者が絶えなかったという。
西側はいわゆる住居棟が立ち並ぶエリア。
ここでの汚物の処理(パイプを通して海に流していた)のこと、仕事を離れた時間の過ごし方(映画やパチンコ、当然飲み屋など)も詳しく解説してくれた。
船は南西端で一旦島から離れてもう一度戻っていく。
そしていよいよ、桟橋へと向かう。
係りの方の誘導でゆっくりと上陸。
見学コースに入っていく。
軍艦島は正式には端島という。もともとは岩礁のようなものだったのだが、ここの石炭は地元の漁師の間では知られていたらしい。特に良質な石炭だということで明治時代から少しずつ開発が進められていった。岩礁の周りを少しずつ埋め立てられ、島といえる規模になっていく。それも当時の土木技術の先端だったのだろう。
それでもどんどん地底深く掘り出していかねばならない。
海底1000mという、信じられない深さまで掘り進んでいったという。働く人々はエレベーター(と言っても簡素なリフトのようなものだった)に乗るのさえ、怖かったという。
解説をしてくれたのは若い頃ここで暮らしたという木場田友次さん。
偶然にもこの前日テレビの番組での放映があり、出演していた方・・・
実体験のもと、具体的に語っていただいた話には深みがあった。
(そして、エンターテイナーとしても素晴らしいものがあった)
子供たちの遊び(狭い場所での野球ごっこや隣の部屋の人々との交流、またもしかしたら実体験?かもと思わせる、若者たちのデートの場所(そんなところがあるわけが無い。堤防が逢瀬の場所だったと言う。そしてそれを屋上で見ている悪ガキがはやしたてていたらしい)ことなど・・・・・
観光客が歩けるところは、ほんのわずかな空間だがそれでもその迫力
もさるものながら当時の暮らしの香りが残っていて、何故か切なくなってくる。
産業や労働の歴史という側面ももちろん忘れてはいけないとは思うが、何よりこの島での暮らしや生き方など・・・そんな方向に引きずられてしまう。
歴史的にはこの国ではじめての高層アパートであり、戦前からのエネルギー供給源であったり・・戦後もまたそれを担う施設であったのは確かだと思う。それを語るのがこの建物たちであり、もちろん当時暮らしていた人々の暮らしの痕跡だ。
でもこの廃墟が僕たちに語ってくれるものは、ただの歴史ではないだろう。
そのころもきっと周りから見たら、最先端の生活道具があり平均的な収入もよかったのだとは思う。ただ、それは生死を分ける過酷な労働環境と不自由な環境とのトレードオフだったことは間違いない。
いまも変わってないじゃないか・・・と
思いながら栄華の跡?を歩いていくと、カヌーでここに来ている若者たちが。
何か対照的に感じてしまったのは歳のせいであろうか。
でも、それはそれでいいのかも・・・
と、思い直し素直にその挑戦心を称えたくもなった。
良し悪しはともかく、そんな風に時は巡っていくのだろう。
長崎港に戻って、ちゃんぽんの昼飯。
そしてあとは帰るだけ・・・。
それでも佐賀空港への帰途では最後の一浴をと、名湯武雄温泉へ・・・・
その楼門は残念ながら補修中だったが、「鷺乃湯」で旅の疲れを癒すオッサンであった。
2013年07月08日
「骨~まで、溶けるよな・・」、暑い夜が続く梅雨明けの関東地方。
昨日は法事の後、家に帰ったら突然の雷雨。うーん、まさに真夏だ。
そんな中て我が家のエアコンがダウン、普段の生活エリアを賄ってくれている室外機(一台で2つのエアコンを駆動している)がうんともすんとも言わない状態になった。
そして今日も真夏日?
眠れない夜をあけたので早めに退社して、家に着いたとたんに電話が・・・・
マンションの管理会社から、だった。
「下の階の方から、そちらのエアコンの排水が落ちてきている」
との連絡がありました。
とのこと。
えーっ!
(エアコン、故障してるのにぃ~)と思いつつ
詳しく聞いたら、もうひとつの部屋のエアコンの話でした。
そしてそいつを見てみると・・・・
確かに排水管に繋がっているパイプが外れてる、じゃあないですか。
で、我が家唯一の空調の砦?である、その部屋のエアコンも危機的状況か・・・・
(当然、それをお知らせしてくれた階下の方にはお詫びと御礼をしましたが)
まあ、とりあえずはバケツを排水管の下に置きガムテープで厳重にセットしましたが、それでもなかなか思うようには使えない状況・・・・・・・・です。
なんで現在、頼りはこいつだけ・・・
しばらくは、がんばってもらいます。
でも…耐えられるか!?
この暑さ!!
昨日は法事の後、家に帰ったら突然の雷雨。うーん、まさに真夏だ。
そんな中て我が家のエアコンがダウン、普段の生活エリアを賄ってくれている室外機(一台で2つのエアコンを駆動している)がうんともすんとも言わない状態になった。
そして今日も真夏日?
眠れない夜をあけたので早めに退社して、家に着いたとたんに電話が・・・・
マンションの管理会社から、だった。
「下の階の方から、そちらのエアコンの排水が落ちてきている」
との連絡がありました。
とのこと。
えーっ!
(エアコン、故障してるのにぃ~)と思いつつ
詳しく聞いたら、もうひとつの部屋のエアコンの話でした。
そしてそいつを見てみると・・・・
確かに排水管に繋がっているパイプが外れてる、じゃあないですか。
で、我が家唯一の空調の砦?である、その部屋のエアコンも危機的状況か・・・・
(当然、それをお知らせしてくれた階下の方にはお詫びと御礼をしましたが)
まあ、とりあえずはバケツを排水管の下に置きガムテープで厳重にセットしましたが、それでもなかなか思うようには使えない状況・・・・・・・・です。
なんで現在、頼りはこいつだけ・・・
しばらくは、がんばってもらいます。
でも…耐えられるか!?
この暑さ!!
2013年07月03日
<3日目> 雲仙地獄と温泉天国 2013.5.5
この地に来たら、やはり寄らねばならぬ。 と、やってきたのがここ「雲仙地獄」。
昨日通ってきた国道57号沿い、高級旅館が立ち並ぶ雲仙温泉の一角に噴気口がいくつも散在する。
ちょうどこのころはミヤマキリシマが見ごろ、連休中ということで遊歩道は観光客で大賑わいだった。山登りをしていればこういうところには何度も出くわすが、これだけの規模の場所はなかなかない。
温度は120度近くあるらしいがその硫黄臭も含め、まさしく地球の呼吸。我々人類もその自然の一部ではあるがやはりスケールの違いを感じてしまう。
ミヤマキリシマだけではなく木々の緑やその可憐な花々も美しい。
小一時間ほどの地獄めぐりを終えて、ちょっと汗ばんだ身体をすっきりさせよう、と向かったのが湯ノ里温泉共同浴場の「だんきゅう風呂」。 4月にリニューアルされたばかりらしく、外観も真新しい建物だ。 湯船は楕円形のタイル張り、薄青いお湯が溢れていておもわずにんまりとしてしまう。 そしてこの日は「端午の節句」、なんと湯口近くに菖蒲の葉が・・・・
これは(無論)女湯も同じだったようで、この日が誕生日のカミサンにとっては、最高のサプライズだったよう。
強酸性の湯でさっぱりした後は「仁田峠」へ。
ここは普賢岳への登山口、当初は登山も考えていたが今回は「スポンサー」でもあるカミサンの意見を尊重して「観光」に徹することにした。
それでもちょっとは山気分に浸りたいと思いロープウェイで「擬似山頂」へ・・・・・
山頂駅からは10分弱で妙見岳とは違う小ピークへと遊歩道が続いている。
普賢岳の山頂にいる登山者の様子もみえる。(うーん、気持ちよさそう!)
ところでこのあたり、現在咲いている躑躅はミヤマキリシマではなくミツバツツジらしい。
仁田峠を後にして険しい山道を再び海岸沿いの道へ降りていく。
国道57号を北上するとなにやら賑やかなドライブインがあった。
「千鶏カステラ本舗」という会社がやっているらしい。隣にはその工場もあるようだがここは橘湾の光景が美しい岬状の場所。
そこで目に入ったのがこれ。なんか懐かしい「流しソーメン」の看板だ。
そういえば島原でソーメンを買おうと思っていたのに忘れていたのを思い出した。
なんで、ここで食わない手は無い。
昔は首都圏にもこんな店があったが今となっては珍しい。
そしてここからの海の眺めもその透明度とともに素晴らしいものだった。
ゆるい入り江になっているところは「千々石海水浴場」で夏は賑わうのだろう。
ここからは橘湾を離れ島原半島から長崎半島へ、ぐるっと半周して最南端の野母崎へ向かう。
長崎市街を出て数十分走ると素朴な漁村の風景になる。
漁港の側にはたくさんのこいのぼりが泳いでいた。
もうまもなく今日の宿、というその場所には「軍艦島資料館」があった。係りの方がその歴史や廃鉱に至った経緯(やはり採算性がその一番の原因)などを詳しく説明してくれる。 島が一番賑わっていた頃の写真なども展示されており明日への期待を膨らませてくれた。
今宵の塒は「野母崎海の健康村」という、いわば公共の宿。リーズナブルな料金(この日で2食付10350円でした)ながら、施設はなかなかのもの。全室オーシャンビューというのもうれしい。
海の向こうに軍艦島の雄姿が見える。
バックヤードは公園風になっていてのんびり海の散歩ができる。
小一時間ほど周りを散策、ハマヒルガオも出迎えてくれる。岬の手前には小さな祠があり、朝鮮半島からこちらに(どんな経緯かはわからないが)来た人たちへの鎮魂の碑があった。
夕食は1階のレストランで。
メニューは「のもん膳」という、いわゆるスタンダードコース。それでも素材の味を生かしながらも一工夫された料理を東シナ海に沈む夕日を見ながら頂く夕食は素晴らしいひと時だった。
そしてここのもうひとつの楽しみが温泉。棟続きの建物が日帰り温泉となっていて、当然ながら宿泊客は自由に出入りできる。
陽の岬温泉という名の温泉で「マグネシウム・カルシウム・炭酸水素塩泉」ということだが、赤茶色の湯花が舞っていて湯船の底にはその沈殿物がまるで砂のようにたまっているところもある。子供たちがそれをすくってはお父さんに見せている光景にほのぼのする。この湯を管理するのは結構大変だろう。もちろん海を前にした湯で、窓の外の景色も楽しめる。施設がら、それほど期待はしていなかった温泉だが身体があったまるいい湯だった。
<==その3はこちら その5へ続く==>
この地に来たら、やはり寄らねばならぬ。 と、やってきたのがここ「雲仙地獄」。
昨日通ってきた国道57号沿い、高級旅館が立ち並ぶ雲仙温泉の一角に噴気口がいくつも散在する。
ちょうどこのころはミヤマキリシマが見ごろ、連休中ということで遊歩道は観光客で大賑わいだった。山登りをしていればこういうところには何度も出くわすが、これだけの規模の場所はなかなかない。
温度は120度近くあるらしいがその硫黄臭も含め、まさしく地球の呼吸。我々人類もその自然の一部ではあるがやはりスケールの違いを感じてしまう。
ミヤマキリシマだけではなく木々の緑やその可憐な花々も美しい。
小一時間ほどの地獄めぐりを終えて、ちょっと汗ばんだ身体をすっきりさせよう、と向かったのが湯ノ里温泉共同浴場の「だんきゅう風呂」。 4月にリニューアルされたばかりらしく、外観も真新しい建物だ。 湯船は楕円形のタイル張り、薄青いお湯が溢れていておもわずにんまりとしてしまう。 そしてこの日は「端午の節句」、なんと湯口近くに菖蒲の葉が・・・・
これは(無論)女湯も同じだったようで、この日が誕生日のカミサンにとっては、最高のサプライズだったよう。
強酸性の湯でさっぱりした後は「仁田峠」へ。
ここは普賢岳への登山口、当初は登山も考えていたが今回は「スポンサー」でもあるカミサンの意見を尊重して「観光」に徹することにした。
それでもちょっとは山気分に浸りたいと思いロープウェイで「擬似山頂」へ・・・・・
山頂駅からは10分弱で妙見岳とは違う小ピークへと遊歩道が続いている。
普賢岳の山頂にいる登山者の様子もみえる。(うーん、気持ちよさそう!)
ところでこのあたり、現在咲いている躑躅はミヤマキリシマではなくミツバツツジらしい。
仁田峠を後にして険しい山道を再び海岸沿いの道へ降りていく。
国道57号を北上するとなにやら賑やかなドライブインがあった。
「千鶏カステラ本舗」という会社がやっているらしい。隣にはその工場もあるようだがここは橘湾の光景が美しい岬状の場所。
そこで目に入ったのがこれ。なんか懐かしい「流しソーメン」の看板だ。
そういえば島原でソーメンを買おうと思っていたのに忘れていたのを思い出した。
なんで、ここで食わない手は無い。
昔は首都圏にもこんな店があったが今となっては珍しい。
そしてここからの海の眺めもその透明度とともに素晴らしいものだった。
ゆるい入り江になっているところは「千々石海水浴場」で夏は賑わうのだろう。
ここからは橘湾を離れ島原半島から長崎半島へ、ぐるっと半周して最南端の野母崎へ向かう。
長崎市街を出て数十分走ると素朴な漁村の風景になる。
漁港の側にはたくさんのこいのぼりが泳いでいた。
もうまもなく今日の宿、というその場所には「軍艦島資料館」があった。係りの方がその歴史や廃鉱に至った経緯(やはり採算性がその一番の原因)などを詳しく説明してくれる。 島が一番賑わっていた頃の写真なども展示されており明日への期待を膨らませてくれた。
今宵の塒は「野母崎海の健康村」という、いわば公共の宿。リーズナブルな料金(この日で2食付10350円でした)ながら、施設はなかなかのもの。全室オーシャンビューというのもうれしい。
海の向こうに軍艦島の雄姿が見える。
バックヤードは公園風になっていてのんびり海の散歩ができる。
小一時間ほど周りを散策、ハマヒルガオも出迎えてくれる。岬の手前には小さな祠があり、朝鮮半島からこちらに(どんな経緯かはわからないが)来た人たちへの鎮魂の碑があった。
夕食は1階のレストランで。
メニューは「のもん膳」という、いわゆるスタンダードコース。それでも素材の味を生かしながらも一工夫された料理を東シナ海に沈む夕日を見ながら頂く夕食は素晴らしいひと時だった。
そしてここのもうひとつの楽しみが温泉。棟続きの建物が日帰り温泉となっていて、当然ながら宿泊客は自由に出入りできる。
陽の岬温泉という名の温泉で「マグネシウム・カルシウム・炭酸水素塩泉」ということだが、赤茶色の湯花が舞っていて湯船の底にはその沈殿物がまるで砂のようにたまっているところもある。子供たちがそれをすくってはお父さんに見せている光景にほのぼのする。この湯を管理するのは結構大変だろう。もちろん海を前にした湯で、窓の外の景色も楽しめる。施設がら、それほど期待はしていなかった温泉だが身体があったまるいい湯だった。
<==その3はこちら その5へ続く==>